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お墓の歴史  〜時代とともに変化するお墓のかたちと移り変わり〜

 

 古代では、人の死骸はそのまま捨てられ、自然の風雨にさらされて大地に返ったものでした。それが5世紀から7世紀頃になると、仁徳天皇陵をはじめとした古墳が作られはじめました。しかし、このようなお墓はごく限られた特権階級の人たちだけのものでした。

 もともと日本民族が、お墓(墓碑)を建てるようになったのは、仏教が伝来し広く普及した奈良・平安時代になってからだといわれています。このころは火葬が奨励されましたが「土に還す」という考え方は土葬の習慣となって近代にまで残りました。死者を土に埋めたあと、石を置いたり木を植えたり盛り土をすることで、印にしたことがお墓の原型だといわれます。

 また、釈尊の仏舎利塔(ぶつしゃりとう)(ストゥーパ)の考え方から、貴族や僧侶は好んで三重の塔などの朝鮮形式の“層塔”(そうとう)を建てています。 岩山に彫り込む“磨崖仏”(まがいぶつ)もこのころで、ほとんどが朝鮮(百済)の帰化人によるものだと推定されます。

 


“層塔”
(そうとう)


磨崖仏
(まがんぶつ)

 鎌倉時代になると、石塔を造ることは故人の追悼供養が目的だという意味合いが明確になり、その数も一挙に増大していきます。本格的な仏塔建立の始まりです。
 弘法大師(空海)のデザインといわれる密教の思想を具像化した“五輪塔”(ごりんとう)はこの頃最も流行した形式で、まさに日本独自の碑型の出現といえます。ほかにも、インド仏教の納経祈念塔から脱皮発展したといわれる藤原一族の墓石で有名な“宝篋印塔”(ほうきょういんとう)、密教経典とともに請来したとされる“宝塔”(ほうとう)、この宝塔と層塔の混合形式とされる“多宝塔”、禅宗の開山塔として多い卵型の“無縫塔”(むほうとう)、そして現代の角柱石碑の原型といわれる“板碑”(いたひ)も武士階級の間で広く普及しました。
 このように、平安末期から鎌倉時代にわたり、仏教の興盛と武士の台頭にともない、現代でも採用される碑型のほとんどかこの頃に出現しています。

 それでは、現代のお墓の形式になったのはいつ頃なのでしょうか。建墓が一般庶民へ普及したのは、江戸時代のはじめになってからのことです。それは檀家制度が確立され、お寺との関係がより強くなったことに起因するといわれています。“位牌型石碑”(いはいがたせきひ)や、現在主流の“角石塔”(かくせきとう)が作られはじめ、儒教の発展とともにその規模は拡大し、現在のお墓の形式が一般化していきました。当時は一人が亡くなるたびにお墓を建て供養する単独墓(個人墓)が習慣でしたが、大正時代から昭和初期にかけて同族の遺骨をいっしょに祭祀する家族墓(代々墓)が主流となり一般的となりました。

 また、明治以降西洋文化の移入とともに“洋式墓”が普及しました。戦後、都市部を中心とした公園様式の芝生墓地の開発でその数はいっそう多くなっています。
 このように、お墓の歴史をひも解いてみると、時代の流れとともにさまざまに変化していることがお分かりでしょう。

     
 

“五輪塔”
(ごりんとう)


現代の“五輪塔”
 

     
 


“宝篋印塔”
(ほうぎょういんとう)


“宝篋印塔”
(ほうぎょういんとう)

     
 


“宝塔”
(ほうとう)


“無縫塔”
(むほうとう)

     
 


“板碑”
(いたぴ)


“角石塔”
(かくせきとう)

   
 
 
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